スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

初七日なのか

桃字君があの世に旅立ってナノか目異常にちっちゃい目になってしまいました。一応簡単にネットで初七日なんてのを調べてみれば、

http://www.e-butsuji.jp/butsuji2-1.html

故人が三途の川のほとりに到着する日とされています。故人が激流か急流か緩流かのいずれを渡るかがお裁きで決まる大切な日で、緩流を渡れるように法要をします。

んだそうですな。猫だしさばくったって人間ほど業も深くないし、気楽なもんでしょう。まあ猫は一年のオンを三日で忘れるオフってぐらいなもんで、今頃は三途の川の川縁でウロウロ楽しげにしていることでしょうな。

さて、桃字の顛末で書こうと思っていた事をすっかり書く気も失せていたのだけど、暇だしちょっとかいてみようかと気紛れに。

桃字の死ぬ二日前(すべてそれが基準)、豊田市美術館に行ってきたのですな。知人の名古屋美術界の重鎮、漢方薬ジジィ(野リア王氏の命名)と。重鎮なのに私らは結構ぞんざいに扱います。

さて、いま豊田市美術館でやっているのは、建築家のジュン様の個展ですな。つい先だってベネチア建築ビエンナーレで大賞を取ってきた作品の、いわば凱旋。大賞を取ったというだけでなく、その作品のあまりの繊細さが、極限的で、些細なことで壊れてしまうことも話題で、新聞にも初日に壊れてしまったことが報道されていました。

で、どんなものか見てみようという文字通り物見遊山なわけです。

最初の一室で展示されていたのがどうやらその曰く付きのものだったようですが、その部屋も中で二つに分けられています。まずは実物大の図面が展示。図面と言っても実際に使われている部材が使用されています。

建築をやっている人たちならわかるでしょうが、猛烈に細い部材がいかにも建築的に描かれています。「圧縮力」「引張力」といった力学用語も丁寧に描かれ(英語だから格好良い)、わずか何ミクロンというその大きさも、力学的な計算に基づいて洗濯ジャブジャブ選択されているのだと言うことがよく分かります。

そうしてさらにその隣へ。入り口で靴を脱ぐように指示されて、図面にしたがって出来上がった極限的構築物が目の前に。美術館の方が、「向こうの黒い服の形に重なるとわかるかと思いますが、とても細い材料で出来ています。」

なるほど、細い柱は向こうの黒い服の人と重なり合わないとみえない・・・じゃなくてそれを支える斜め材がか。これは凄まじい。見えないぐらいの建築物。柱の先端を見ると・・・天井に重なってもう見えない。でも図面にはあった横架材、梁がないんですな。不思議だったのだけど、それが初日に壊れた部分だったと、後から教えてもらいました。

なるほどねえ、凄いねぇ、と感心しつつ、他の展示も観ていくのだけど、次は雲みたいな建築物。ワシをワシ?和紙を重ね合わせて以上に細い部材で出来た立体障子みたいな作品。雲に見立てられたそれは、人間がアリの大きさぐらいのスケール感なのだとか。イメージの中でそれは物理的な障壁をなくし、拡散する白い光の中で存在を抹消する。これもまた、建築のスケールを変えようという試みなのはわかりますな。

さらに、例の賞を取った作品。森か建築か、というような光の優しい、いわば物としての建築の消える作品の模型、その一部をとり続けたビデオのインスタレーション。

それから、巨大な模型。建築物を自然スケールに近づけることで、物々しく人間を圧迫する「建築らしさ」から解き放たれて、むしろそれはヒューマンスケールに近くなる、という逆説。ネット上に張られた屋根のようなメッシュには緑が張り巡らされ、その下で営まれる人々の振る舞いは、いかにも自由、そして気ままで、そうした許容力が何とも優しげなものに映る。

その後がそのドローイング。それから天上に昇っていくかのような、スカイスクレーパーなのに細く優しく倒れそうな建築物の模型。最後が、「庭」だったかなんだったか、とてもフェティッシュな感覚のオブジェを集めた小さなインスタレーション。

・・・まあ感想は人それぞれ色々あるでしょうが、私個人は、なんとなく今の日本の情緒的な状況を、建築の世界でもこのように表現するのだなぁ、としみじみ感じ入ってしまいました。

何というか、最初からそうだったけど、すべてに渡って繊細で、脆弱で、なんとも優しげナノですな。あまり当時は隊長もよろしくなかったのだけど、隊長?誰?見ながらだんだん吐き気を催し始めるのですな。最後のアタリには一刻も早くその場を去りたくて仕方ないのを我慢して、どうにか「見た」という事実を作って見たりして。

何が一体そうさせたのか、自分なりに思い返して見ると、何というか余りに優しげなタッチ、余りに善良なイメージに溢れていて、こちらの体がついて行かなくなったんじゃないかと、思ったりもするんですな。この感覚何かに共通するな・・・そう、あれだJポップ。不満やら苛立ちやら、そういった文脈はすべて消滅して、あるのは只、誰かに会いたい気持ち、あえない寂しさ、それを包む優しさ、そんな脆弱な歌詞ばかり。そうした感覚と、作品が、ドローイングも模型も、どこか通じているような気がして、それがこちらにある種の息苦しさを与えていたのだと独り合点。

参考までにこんな記事を。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1011/01/news064.html
http://news.ameba.jp/weblog/2010/07/72833.html

こんなのも。

http://404nots.blog88.fc2.com/blog-entry-1039.html

煎じ詰めて言えば、そこには「悪意」がない──と思ったんですな。美術館、美術、来訪者、そうした人たちに対する敵意も何もない。どこまでも透明で偽りのない存在。こちらがこんな陰気な感想を持つこと自体、何か最初から「禁じ手」として封印されているような気さえするのですな。

そう考えてみると、できている物はとてつもなく、優しく脆弱なのに、見る側には異常なまでの身体的緊張を与えているのも、息苦しさの原因だったりしたかもしれない。イメージはアリ、だけど「触らないでください」「気をつけてください」「壊さないでください」。実際見るものはアリどころの大きさじゃないんだな。

そのあたりいささかアイロニカルで、そうしてみればおもしろさもあるけれど、きっとそれは作者の意図じゃないだろうね。そんな読み方はまさに「悪意」になったりして。

同行した重鎮様に「どうでした?」と尋ねたら、「何の刺激もない」。見も蓋もないですなぁ。今日との美術関係の友人に聞いたときの反応が言い得て妙でした。

「フラジャイルにも程があるっちゅうねん」

さてまあ肩の凝る話はこんなところで、桃字君を弔いましょう。三途の川を渡れるように・・・あ、え?何?ナノか目って初七日じゃなくて初七日は六日目って昨日なの?ダメジャン、桃字君三途の川でおぼれて死んでしまうじゃないの。桃字、ダメな飼い主ですまなかった──。

四日目五日目カメハメハ(タイトル追加)

前々から決まっていたことで、少々気が重たかったけれども、行ってきてよかった金沢。

雪でどうなるやらと心配された高速道路も、当日には北陸道は規制解除。北陸道も東海北陸自動車道も、どちらから行っても金沢はほぼ3時間半の道のり。

何しに行ったかというと、友人のアーティストの個展のオープニング。それから金沢21世紀美術館の「フィッシュリ&ヴァイス展」、さらに富山県の発電所美術館での「セシル・アンドリュー展」。三つまとめて回りましょうという企画なのでした。

初日は学生たちも混じってオープニングパーティ。段取りが悪くて、二次会の場所も決まっていない。主催者何をやっとルカという、聖人の叱責も間に合わず、待ちくたびれた頃にようやく中華料理屋に移動。

おいおい、ワシら観光客は魚介希望なんだがなぁ・・・

しかし忘年会でいきなり場所を確保することも能わず総勢20人で中華料理屋に移動。学生もいるし高いところはダメって。

ともあれ中華料理屋に到着。20人は三つのテーブルをつなげた各場所に、6,7人ずつに分かれて座る。さて料理。しきり役を任された学生さんが、女中さんに一通り注文した様子。あとは料理を待つのみ。

しかし・・・。待てど暮らせど料理が出てこない。何事かと苛ついていると、ようやく出てきたエビチリ炒め。

うむぅ。7人のテーブルにひと皿。海老の数6匹。

弱肉強食なのか。そしてまたしばらく料理が出てこない。

料理の遅い中華料理屋も珍しい。

そうして待ちくたびれた頃に出てきた、蒸しギョーザと海老ギョーザ。

それぞれ、三個ずつ。

うむぅ。またしても弱肉強食。

いつになっても料理が出てこない。おまけにシメのチャーハンが出てきたと思ったら、また唐揚げに戻ったり、点心が出てきたり。そしてすべてが量的に不足。

とんでもない中華料理屋に入ったのであった。全部出てきたところで、一応会計を済ませ、別の店に移動。今度こそは魚を食わせろと要求し、どうにかこうにか居酒屋に移動。

そちらは普通に料理が出てきて、チェーン店だったけど普通においしい料理が食べられたので一同、とりあえず納得。

しかし、結局金は倍払った勘定で、そんな事なら最初からもうちょっとまともな店に行けばよかったじゃないか──とは主催者の某先生に多くの参加者が思った事(のはず)。

その後、さらに移動したバーの個室でワタクシの生誕を祝うこんな事までしてくださいました。美人の学生さんありがとう。

IMG_1282-.jpg

そして翌日、前日までの曇天、雨天が嘘のような快晴。午前中は21世紀美術館、午後は発電所。

その間に寿司で腹ごしらえ。ここはワシは奮発で、特性海鮮丼。

IMG_1283-.jpg

見かけ倒しでしたな。残念。カニは水っぽく、ウニもたらたら。濃厚さに賭ける味。ギャンブルですな。

あり得ないことに寿司飯が暖かい。こういう寿司はアリなのか?疑問の尽きない昼飯だったのでした。

「今日は市場が休みで冷凍を使用」

と書いてあったから、そもそも期待してはダメだったのか。なら、値段も下げて欲しかった。

帰りに富山で食べた回転寿司のほうがおいしかったなぁ。


──と、飯の話ばっかりだけど、展覧会はすべて素晴らしいものでした。(こっちはおざなりな報告で。)

三日目

桃字が死んで三日目が過ぎようとしている。

仕事に出て、誰かと話をしていたり、何かに気を取られているとたいがい大丈夫にはなってきたけれど、クルマの運転中は相変わらず雑念が襲ってきて、とらわれてしまう。一人になるとついつい思いが巡ってしまう。

インターネットで猫の画像はしばらくは見ることが出来ないだろう。

問題はやはり、その瞬間に起こったこと。

布団の上からずっこけて落っこちるという事態は日常茶飯事だったので笑うほかないが、その後にどうしてあんな呼吸困難に陥るのか。

息が出来ないで、目を見開き何とか呼吸をしようとしていたのか、それとも女性獣医師さんの言うとおりほぼ即死だったのか。

話は三日ほど前にさかのぼる。12月12日日曜日。

午前中から比較的天気もよく、午後からは知人と美術館に出かける約束もあり、午前中に洗濯だの掃除だのを済ませようとあくせく働く。

桃字のトイレの周りには新聞紙が広げてあって、飛び散った砂などが片付けやすく、不精者の私なりに工夫してみたりしていたのだけど、どうも砂を変えてから飛び散り方が激しく、新聞紙が面倒ですべて取っ払ってしまったり、全体に気分も変えてスッキリとさせてみた。仕事の方がいまいちすすみが悪いので、気分転換も兼ねていたというわけだ。

そんな流れの中で、埃のたまった棚なども少し片付け、ベッド脇に置いてみた。その前まではキャスターのついたワゴンが置いてあり、いかにも邪魔くさかったので、これでベッド脇も少しさっぱり。

そう。

まさに桃字はその移動させた棚にぶつかって死んだのだ。

遠因を作ったのはこの私自身。

そしてその朝、少し寒い朝、桃字が私の腕の上に体を横たえてグースカ寝ているのがいい加減重くなり、ぼちぼち起きる頃合いもあり、モゾモゾ動いていると、桃字が目をさまし、餌を要求しようとマクラの周りにまとわりつき始めた。

何となく寒いと思ったら、掛け布団がかなりずれていて、それを直そうと思って布団をはね上げ、位置を正し、もう一度首まで布団を掛けて愚図愚図布団からでないでいた、その脇で、桃字が餌を要求していた(のだと思う)──後から餌の皿を確認すると、キャットフードは残っていたけど、あの馬鹿たれは出したばかりのものがどうしても欲しいのである。偉そうに。

ええいちょとまたんか、うるさい。

──と布団の中でまだモゾモゾしている横で、

どんがらがっちゃん。

おいおい、相変わらず鈍臭いな、おまいは。

ところが、いつもなら這い上がってくるベッドの上に、戻ってこない。落っこちておびえているのかと思ってのぞき込むと、もう息が出来ていない様子。

後は既に書いたとおりの顛末。

そう、ここで二重の遠因を私が作っているのである。

棚、布団。

さらにその上に、桃字が転ぶ。

さらにその上に、打ち所が悪すぎた。ベッドの高さなんてたかだか45センチなんだから。

一体どういう偶然が重なれば、こんな非道いことが起きるんだ──と自問自答。

もちろん答えなんか出るはずがない。まるで設えられたかのような運命。

その数日前、私は桃字のあまりの気紛れと我が儘にいささか嫌気も差して、こういった。

「そんなにここが嫌なら出てけばいいじゃないか」

まあよくある話。猫に言う自分もたいがいなもんだが、あまりにも遊びの要望が細かくてしかも飽きっぽく、当方も途方に暮れていたときに腹立ち紛れに言ったこと。

その言葉も一緒になって、その場所に収斂する、その瞬間。

桃字は本当に出て行ってしまった──後悔先に立たず。まさかこういう形で出て行くなんて誰も想像できない。せいぜいベランダから飛ぶぐらいしか頭になかった自分を悔いた。誰の意志でこんな事が起こるのか。

昨日は体の節々も痛むので、いつも通っている鍼灸院に行って、少し治療をしてもらった。

そのときに猫の話を少ししたら、

「きっと嫌ででていったんだわ」

と、何も聞く前に鍼灸師のお婆さんは断言。

「いやー、落ち込むんでやめてください。」

と、先ほどのエピソードを話す。

まあここにも取り返しのつかない瞬間ですな(笑)。

もっとも、先生は私を慰めようと言ってくれたのだから、その心まで責めるわけには行かない。

先生ほかにもこんな事を仰有ってくださいます。

「事故なんかで生き残った人って、必ず自分を責めるんだそうですよ。どうしてあそこであの人を呼んだのか、どうして自分だけ助かったのか、JRの事故の時にもそう言う心理的な罪の意識がかなり遺族にあったって読みました」

正確な記憶ではないけれど、まあこんな意味合いの話。

なるほど、そうなんだ。こういう事故では必ず、どこかに遠因になる存在がある。その遠因を作った側は、どうしもて自分を責めることになるんだろう。

──掃除なんかするんじゃなかった。

これから掃除をする旅に出かけるさよーならー、じゃない、掃除をする度に、布団を引きずりあげる度に桃字を思い出す。あの瞬間を思い出す。あのグラスの割れる音を思い出す。あの顔を思い出す。あの、「ガフッ」という、断末魔の最後の一呼吸を思い出す。

なかなか酷な話である。

二日目

今日は桃字が灰になっちまった。

悲しい。

さすがに昨日のようなことはないけれど、なかなか気持ちの整理がつかないものですな。

色々な映像がフラッシュバックするので、その都度気持ちがそこに奪われてしまい、ぼーっとしてしまう。朝などは、まさに昨日の同じ時間にこんな顔をしてここで死にそうになっていた、なんて思い出したらもうダメ。グルグル映像が回り始める。クルマの運転中、信号待ちなどしてもそう。後ろからクラクション。

ハッΣ(゚Д゚;)

まさに絵に描いたように。そんな自分をちょと笑ってみる。

まあ当たり前でしょうなぁ。二日目だから。

「去る者日々に疎し」

時間とともに次第に忘れていくもの。

記憶も。痛みも。

それにしても、思い出す事柄のあれこれを考えながら、一体何を惜しんでいるのか、自分なりに考えてみたりもして。

一つには、過ぎ来し方を振り返り、一緒にいたその時間を綺麗さっぱり無にされてしまったような喪失感。

そしてもう一つ、未来に向けてまだ可能な時間として留保されていたものもいっぺんになくしたという様な喪失感。

主として時間軸に沿って喪失しているのですな。だからせめて、まだ少しの猶予をもらいたかった、そうすればまだしも納得できただろうに、などなど。

さらに時間と来れば、当然ながら空間。

家に帰ったときに当然その主体が占めていたであろう場所に、その主がいないことに喪失感を感じたりもするんですな。

だから思い出すその最後の呼吸の瞬間、すべての時間と空間が捻れて、なにか歪んだ間違った場所におかれてしまったようなそんな後悔とも怒りとも、なんとも名状しがたい感情にとらわれてしまう。

結局人間を失ったときと同様なんですな、多分。しかも日々一対一で過ごしてきた相手だけに、実際人間以上の感情移入がそこにはある。文字通り体の一部を失ったような感覚も湧いてきたり。

世間ではダイアナロス@創価学会、いやペットロスなんて言葉が流行っているようで、そんな言葉にくくられたくない、と意地など張ってはみるものの、正直に言いましょう。

負傷痛い痛い不詳ワタクシ、「ペットロス」であります。

まあ、ダイアナロスよりはマシってことで。しばらくこんな状態を楽しんでみるんである。

昨日と今日

昨日と今日とがこれほど違った日になると、一体自分で想像できただろうか?

日常は脆い。

朝、ついその5分前まで同じ布団で息をしていたその猫が、餌をねだっている内にベッドから滑って転げ落ち、脇の棚の角でどうやら首を打ちつけたらしい──そのとき、おいてあるコップが割れ、破片さえ飛んだ。なのにコップは床に落ちず、棚の上にあった──ベッドから転げ落ちるのは、日常茶飯事で相変わらず鈍臭いヤツ、と下をのぞき込むと、既に息も絶え絶え。

慌てふためきすぐに近所の動物病院へ。電話をするも、

「獣医師がいないので対応できません」

獣医師のいない動物病院などあってたまるか。

思い出して、日曜祝日変わることなく診療しているある動物病院を思い出す。

どうにかたどり着き、診療時間前の所に無理矢理お願いして診てもらう。

見るからにダメそうなのはもう解っている。

どうにか助からないかとお願いしたが、蘇生を試みた後、静かに鼓動が絶えてしまった。診察室から若い女性獣医のすすり泣きがもれる。その気持ちに少しばかり感謝。

フラッシュバック。

今から20年ぐらい前にも同じような事があったのだ。

飼っている猫をふざけて段ボール箱に閉じ込めたら、普通なら喜ぶところ、何のトラウマか恐怖におびえ暴れ初め、たまたま近くにあったストーブの角にやはり首をしたたかに打ちつけて、頸椎損傷。呼吸器系の神経がやられてそのまま帰らなかった。

そうして私も同じように首を痛めている。

因縁、という言葉が脳裏を巡る。

蘇生なんてまったく無意味で、結局は自分が納得するためのものでしかなかった。

段ボールの棺に桃字を入れてもらい、家に帰る。

供養だの葬儀だのが頭をよぎるがどうして良いか分からない。ネットで調べてみると、八事霊園で火葬はやってくれるらしい。動物病院でもらった動物供養のパンフレットも見てみるが、そのゴージャスな供養の有様がむしろ嘘くさく、人の心で金儲けをしているような浅ましささえ感じ(違うかもしれないけれど)、当たり前に八事霊園で火葬してもらおうと決断。

火葬に行く途中で、桃字がかつて脱走したときに、餌で手なずけて捕まえてくれたいつもお世話になるおばちゃんに挨拶。おばちゃん、有り難いことに段ボールに花なんか添えてくれました。

そうしておばちゃんも同行して下さり、八事霊園へ。

手続きは簡単。名前を書いてお金を払うだけ。今日は友引だから火葬はしないそうで、明日まで霊安室に安置。そんな事なら、今晩一晩置いておいてもよかったと心の中で少し後悔したけど、それはそれで後ろ髪をまた引かれるので敢えてそれ以上は考えないことに。

おばちゃん、ありがとう。

明日は桃字は灰になる。

桃字の魂の安らかならんことを。

いずれ私も灰になる。今夜は酒でハイになる。
プロフィール

Author:respirateur
グゥ。。。

熊時計
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。